おみぃの裏山

アラフィフおみぃの詩のブログです^_^どうぞごゆっくり

大雨の日のハプニングで、思わぬ収穫

こんにちは、おみぃです。7月がスタートしましたね☆

 

昨日はこちらはものすごい大雨でした。

 

大雨で、急遽、姉から頼まれて、甥っ子を迎えに行くことになったのですが…

 

 高校生の甥はまだ携帯を持っていません。私の息子も高校3年の7月までは、携帯を持っていませんでした。

 

昨日は、友達に貸してもらい連絡することになっていました。今時は公衆電話も置いてないんですね。

 

甥の通う高校は、私の家から少し離れたところにあります。連絡が来次第すぐお迎えに行けるように、実父母の家でスタンバイしていました。

 

がしかし、待てど暮らせど連絡は来ず…大雨は降りやまず…

 

待つ以外仕方ないので、その間、延々と実母と世間話をしていました。

 

初めて聞いた母方の祖母の話

 

私が生まれた時はすでに、母方の祖母は他界しており、一度も会ったことはありません。

 

祖母はひとりの孫も見ることなく、六十代前半で急死したことを聞かされました。実父母が結婚した翌年のことでした。

 

祖母はバリバリのキャリアウーマンだった⁉︎

 

祖母は町にたった二人しかいない、産婆さんの一人だったそうです。言ってみれば、押しも押されぬ引く手あまたのキャリアウーマンだったわけです。

 

祖母は当時まだ見かけなかった婦人用の自転車に乗って颯爽と町内を奔走していたようでした。

 

人の誕生は時を選ぶことができませんから、お呼びが来れば、昼夜関係なく自転車の荷台に大きな風呂敷包みを縛り付けて、雄々しく出動する祖母。

 

兄弟や祖父や叔母が一緒に住んでいたとはいえ、実母は、子ども心にずいぶんとさみしい思いを体験した様でした。

 

現在でさえ、働くお母さんたちのご苦労は計り知れないくらい大きいですから、昭和の20~30年代ともなれば、相当な覚悟がなければ仕事を続けることは困難だったことでしょう。

 

祖父の理解にも脱帽です。大工さんだったみたいなので、夜は必ずいて子どもたちを見てくれたんだと思います。

 

家族の理解と協力があった環境だったとは言え、こうした職業人としての若い時の無理が、うんと祖母の寿命を縮めてしまったのかもしれません。

 

多くの赤ん坊をとりあげるという尊い使命を全うした祖母は、いったいどんな気持ちだったんでしょうか。やり切った感でこの世を後にしたのかなぁ。可愛い孫たちの顔が見たかったろうに。

 

私にも、職業人としての熱い魂を持ったDNAが少しなりとも流れているのか!とちょっと嬉しくなった出来事でした。

 

(そうそう、DNAと言えば、今日はDNAベイスターズとの2戦目だわ💦気が抜けない)

 

さて、一方の甥っ子はというと…

 

電話しそびれ、夕方まで学校で友達とおしゃべりしていたようでした(;'∀')おーい!

 

とはいえ、普段めったにゆっくり話し込めない実母との貴重な時間を、甥っ子がプレゼントしてくれたような、感謝な出来事でした^^

 

おまけ

 

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こちらは沖縄の姪っ子達からの夏の嬉しいお届けものでした。

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久々のマンゴーに舌鼓‼︎

 

みなさまも良い7月をお過ごしくださいね!

 

最後まで読んで頂きどうもありがとうございます(^。^)♫