断捨離マン返上 ②
夫の死後は否が応でも「若かろうが高齢だろうが、人間いつ何時、どんな事が起こるかわかったものじゃない」と考えざるを得なくなってしまった。
少し早めの終活もかねて、様々な後世に残したくないものを、この二十年着々と捨て続けてきた。
例えば結婚写真。私にとって「こんなものもういらない」の最たるものである。」(あくまで「私にとって」です。結婚写真はリビングに一生飾って置きたいくらい一般的には重要なものだとは思います。)
人に非難されるのを恐れつつ、小さいスナップ的なものから地味に捨てていった。
一昨年、旧姓に戻したのをきっかけに、分厚い結婚アルバムをとうとう処分。そのスッキリ感といったらなかった。
生後二ヶ月ちょっとに亡くなったので、ほぼ父の顔を覚えていない息子のためには、「一応若いころお父さんと結婚していた証拠写真」として、結婚式の和装と洋装の写真のプリクラ的なツーショットのシールはかろうじて取ってある。
老眼の始まった私には、もはやよく見えないので気に障るほどの存在感はない。
プリクラに加え、夫の職場での写真などもちゃんと息子のためにとってある。
死んだ夫の写真を一切飾らない、遺影に語り掛けたりもしない私には人情が足りないのだろうか?
過去の素晴らしい思い出を、現在を生きる力と変えられるようなすぐれた人間性の人ならば、それもありだろう。
残念ながら、そんな殊勝な能力は持ち合わせてはいない。
そんなわけで、夫の思い出のものは自分用には手紙一つ、指輪ひとつ取ってはいない。
それで後悔したことは二十年間一度たりともない。
一方、昔気に入ってた腹巻きとレッグウォーマーと手編みのスヌードを、昨年の2度に及ぶ引っ越し断捨離のどさくさで、うっかり捨ててしまったことは今でも毎日後悔している。
「断捨離」と言う短いことばのなかには、心の中の割り切れないモヤモヤや、捨ててしまいたい嫌な思い出、しまっておきたいいい思い出、過去を振り返らずに前進していきたい前向きな気持ち等々、複雑な心模様が潜んでいる気がする。
時にかなって、上手に心と頭と身の周りを整理すること。
それがアラフィの私が幸せに生きるためには、とても大事なことと感じている。
これからはもう少し賢く、悔いのないように、モノも心も少し整理して、今まで分散していたエネルギーを新しいステージを生きるチカラへと変えていきたいものである。
( ぼくちゃんのことは断捨離しちゃいやよ!)(沖縄在住 たま ♂5歳前)